藤原直哉氏が明るい暗いの違いについて述べていたのが印象的であった。性格がどうのというのとは違う話で、自分を頭上から照らす光が遠くまで及ぶものと足元しか灯さないものとの違いを明るいか暗いかと言っていた。
暗い人の場合は自分の足元しか見えないので、今自分の目の前のことしか考えられないのでそのことで一喜一憂する。よって自分のことしか考えられない。
いっぽう明るい人というのは広く遠くまで照らされているので物事を俯瞰的に見ることができ将来を見通す目が養われることから他の人のことまで考えることが出来るようになる。
利他的な人と利己的な人の違いとでも言えばいいのか。では、頭上から照らしてくれる光とは何ぞや?これについては触れられていなかった、そんなことは言うまでもないことなのか。
もしかしたらオーラと呼ばれているものなのか、たしかカタカムナ研究家の吉野信子さんが「人は自分の内側から発するエネルギーにより光を放っている」という内容のことを著作の中で述べていると記憶している。
エネルギーを蓄える状態が闇で、たまったものを放出すると光となる。生命現象というのはこの二つを連続して営んでいる。闇と光は別なものではなくこれを図式化したものが勾玉図。
目に見える世界と目に見えない世界は表裏一体で繋がっている∞
自分も人もこの∞のエネルギーの流れの中にいると思えば別のようでいて別のものではないことも何となくではあるがわかる気がする。
このことに気がついていると光が遠くまで届くのではないかと個人的には思う。
藤原氏の話に戻る。明るい人のさらに上を行くのは信仰心のある人という。
信仰心がある人は、今のような大きく時代が変わるときに自分から切られ役を買って出る。
芝居は切り役と切られ役がいなければ成立しない。そして誰だって切るほうが切られるほうより良い、そこで損な役を引き受けられるのは信仰心があるからだと言う。
目に見える所だけ見ていたら大きな流れが観えない、したがって利することに焦点を当てて限られたパイの奪い合いになる。
たしかに信仰心というのは凄い、母の葬儀の時教会の信者さんは顔も見たこともない人のために通夜と葬儀それに火葬場まで来てくださり灰になるところを見届けてくださった。
恥ずかしながら私は小学校以来葬儀は別にして教会に足を運んだことがほとんどなかった。
この方たちの死者に対して祈る心は痛いぐらいに強く響いてきた。従兄に「どうして見も知らない人のためにここまでしてくれるんですか」と尋ねたら「祈りだから」とだけ答えてくれた。彼の信仰心に信者さんは共感しているんだろう。宗教というものと信仰心をごちゃごちゃにしていたことに気づいた。自分はバカだった。甲府に戻ってからは教会に足を運ぶようになりつつある。子供のころに戻るかのように。