半月ほど前に「古事記と言霊」という書籍を購入した。ユーチュブで何人もの人が取り上げていたので興味を持っていたから。
これがことのほか素晴らしいが、いかんせん難解な読み物である。まるで体癖に出合った時のような感んじになった。興味は沸くがよく意味が分からないのでページが進まない。行きつ戻りつしながら読み進めているのでページが進まない。半月ほど経過したのに100ページ行くかどうかという程度。
この本と一時間ぐらいにらめっこしていると頭の中がグルグルしてきて目の焦点が何処とも合わなくなる。庭に出てみると犬のさくらが不思議そうな表情で私の顔を覗き込む。
「こいつ結構危ない領域に差し掛かってるのかな」とでも感じているのか、直ぐには寄ってこない。相手との距離感を保つという点では犬は絶妙なバランスを取る。
こちらの嫌がることをした時など「コラ!何してる」と怒鳴るよりも、「今度それしたら散歩に行かないから」と、低いトーンで言った方がこたえるようだ。
これは、「これこれこうだからこうした方が得策」というようにいくつかの事例を分析した結果に基づいて結論を割り出すようなものではない。
答えが向こうからストーンと自分の中に入ってくるようなものではないかと思う。
犬は人間の行動をよく見ている、散歩をしていても今まで来たことのない道に出ると、「どっちに行く?」といった感じのサインを出す。
「右に行こうかなと」と思うとリードを軽く右に向けて指先で弾く、するとサッとこれを察して右に行く。こういったことを事も無げに行う。
AIのようにデータベースにアクセスして過去の事例を引っ張り出してきて、情報処理して答えを導き出すようなことはしない。
飼い主の波長に合わせて一体になっているからこちらの意図がリードを通して伝わっていく、それをそのまま素直に受け入れるので、迷いなく選択できるものと考える。
今日は「思う」と「考える」を意識的に区別して使っている。
自分自身も今までこの本で「思う」と「考える」についての文章を読むまで、なんとなくその時の感覚でこの二つの言葉を使い分けていたに過ぎなかった。恥ずかしながらどう違うかについて考えたことはなかった。
「考える」の語源は「神返る」らしい。どういうことかと云えば、考えるという行為は一つ一つの経験から、それらが起こってくる初めの原因、法則や原理を求めようとすることらしい。いくつかの支流から川の源流を辿っていくようなものとでも言えばよいのかもしれない。
このことは多から一(神)に帰ろうとすることであるので「神に返る」つまり「考える」ということになる。
この考えるということが西洋文明の基盤であり、今日の物質文明を支えてきたことになるとも言っている。
キリスト教やイスラム教などは神は唯一無二の絶対的な存在であるのだから頷ける。
しかしながら日本は八百万の神で、どこそこにたくさんの神様がいる。島根の人が「ここら辺りは、人は少ないけど神様は大勢いる」と普通に言っていたぐらいであるから肌感覚でそう感じている。
唯一無二なものなど無い、違うように見えても本質的には同じものである。こうした感覚もそこにはあるのではないか。違いをなくす、差を取ることから悟りの境地に入るという話も聞いたことがある。
唯一無二のものは絶対的な存在なので他とは違う、だから序列が生じ縦社会ができたのではないかと考える。
それと、これも個人的な意見だが「考える」という行為は主に大脳新皮質で行われるものではないかと感じる。
いっぽう「思う」という行為はというと、「ここら辺りには神様はたくさんいる」という感覚にはエビデンスというものはない。はっきりとした根拠はないけど間違いなくそう感じる、それをいちいち説明する必要もないぐらい共通の認識としてある。こういう信念のようなものが根底にあることを前提にしている。
これは脳みその表面で行われる電気信号のやり取りではない。もっと心の奥の方から湧き出てくるものを元にして、自分の目の前の事象にそれを当てはめていく作業を思うと云うらしい。
物質よりも精神に重きを置いた日本の文化の根本のような気がしてならない。
「裡なる声を聴け」と野口春哉氏は良く著書の中で述べていた。
心を落ち着かせて体の奥から湧き上がってくる感覚を受け取ることをこのように表現した。
俯瞰的に見るには、目の前の事象に惑わされないことが大切であり、そのためには自分の内側(裡)に意識を向ける必要がある。思うことと考えることを使い分けなくてなならないのかもしれない。
そうか、このように理屈をこねくり回すことは、思うことには至らない。
「ミイラ取りがミイラになる」というべきか。