一切なりゆきというのは、樹木希林さんの本のタイトル。図書館で気になったので借りてみた。
表紙の写真がとてもよくて、まるで自分に微笑みかけてくれているような気がして手に取ってしまった。本との出会いはいつもこんな感じで、本棚をあてもなく眺めながら移動するのが楽しくてならない。どうしてなのかよくわからないが「おい、そこのお前。良いから手に取ってみろ」と本の方から言われるような気がして手に取ってみる。もちろん返すのもあるが、何か離れがたい気がして借りていくのが図書館でのいつものパターン。
何も希林さんが微笑みかけてくれるはずもないのに、どうしてこうも勘違いするのかと今更ながら自分に対して笑ってしまう。
そういえば十代から二十代の頃、街中を歩いていると向こうから見たこともない美人がこちらを向いて手を振ってくれている。「そんな馬鹿な」と思のだがその人の視線はこちらを向いている。
どこかでニンマリする自分が湧きあがってくる頃、「遅いじゃない○○くん」みたいな声が聞こえお目当ての相手は自分のすぐ後ろにいるといった具合。
「ああやっぱりね…」すぐさまこの糠喜びをその人に悟られたくないという気持ちが強烈に高まる。感情はジェットコースターのように乱高下する。今にして思えば笑える話、まぁ所詮そんなもんだよな、と受け入れられる自分になれたことに感謝する。
私は30を過ぎたころから髪の毛が薄くなってきた。これはとてもしんどかった。世の中これで終わるのではと思えるほど、まだ結婚もしていなかったからこの先女性とは一生縁が持てないのではないかと本気で思ったことがあった。
しかしながらそれからほどなくして今の女房と出会ったので事なきを得た。しかし結婚したからといって他の女性に一切興味が湧かなくなるかと云えばさに非ず。好みの人に会えばよく思われたいと感ずる気持ちに変わりはなかった。
そこで気になるのが禿げ頭、髪の毛がもう少しあれば脈もあるかもしれないと内心思ったことが何度あったか。
しかし、年月というものは馬鹿な男にも少しは知恵をつけてくれる。仕事でもプライベートでも会う女性で自分の頭のことを口にする人は一人もいなかった。この人たちの関心は職人として私が彼女たちをどう見ているか、という一点に絞られている。
髪の毛が多かろうが少なかろうがそんなことには何の興味もない。「この人は使える」と私のことを思った人は、どんな服装をしているかといったところにチェックはしているが。
これも人物を見極めるための方便に過ぎない。
薄いだの禿げだの言うのは男の方で、どこかで優越感に浸りたいのだろう。初めのうちは腹も取ったがいつしか力量が見えるから気にもならなくなった。
考えてみると自分の外観を気にするのは、異性を意識してのように思えるが実は同性に対しての競争心からではないか。
女性にしても「私ってデブなの、ここにこんなに肉がついちゃった」何度となく女の子が言うのを耳にした。が、さほどのことは先ずない。異性が気にも留めないようなことに心を砕いている。本当に悩んでいる人はそんなことを軽々と口にできない。お金がない人がお金がないと言えないのと同じように。
「自分が大したことがない、自分にできることはここまで」これが何となく掴めてからどうせ大して気にも留められていないのだから気楽に行こうとも思えるようになった。
すると女性の外観にもあまり関心が向かなくなった。この人が何を考えているのかを想像するほうがずっと面白い。これは仕事ではなく遊びだ。
しかし、この遊びを家庭の中にまで持ち込むことが上手くいかずいつも叱られる
「何度言えばわかるの」
きまってぼんやりしている時に。