コメントを見て

コメントをいくつか頂いた、概ね良い評価を与えてくれている。何ともうれしい限りである。

それが英語で書かれていたから初めは嘘かと思った。

友人知人はすべて日本人、英語が話せるわけでもなく海外への渡航経験すらない。

しかも、自分がこの場を借りて書かせてもらっていることは、目に見えない世界と目に見える世界の繋がりのツールとして癖というものであること。

日本人とてほとんどの人は、そんなことはどうでもいいと思っているだろう。

日常、何気なく繰り返しやっている動作としての癖、ものの見方としての癖、価値観や好みのという癖。

これらは、自分では気にも留めていない潜在意識が働きかけて作られている。

人の意識がどう動くかには法則があり、その中でどこに優先順位を置くかで言葉や行動が変わってくる。「古事記と言霊」には心の動き方が記されている。どうも決まったルートというものがあるらしい。らしいと書くのはまだよく判らないから。

目には見えない世界が目に見える世界への現われ方として癖というものが生まれてくる。

長年癖というものを興味深く見てきたので、その人の心が癖というものを通して目に見える世界に現れることはよくわかっているつもりであった。

人の身体のどこに刺激を与えるとどう反応するのかという事もそれなりにわかっている。

そうした観点から、身体が心に影響を与え考え方や言葉を作っているという側面が多々あることから、心とは実は身体が作り出している面が多いように感じていた。人は身体に振りまわされているとも考えていた。

ところが、身体が先で心は後から付いて来るように思えるのは錯覚でしかない。心の方が先であり身体は心が現実世界に反映されたものだという事を病気を通して教えられた。

人は死というものが必ず訪れることは皆知っているが、それはまだ先のことで差し当たり他人事のように感じている。

ところが、癌のような病気を目の前に突き付けられると死というものの存在感に圧倒されて自分がどうして良いか分からなくなる。

入院しているとその心の在りようが痛いぐらいに伝わってくる。誰もがその不安や恐怖にさいなまれ何も手につかない状態でベッドの上に乗せられている。

自分以外の人の姿は良く見えるので、「ああはなりたくない、自分は他の人とは違う」なんて思いながら心を閉ざして孤立していく。

会話をするのは家族と医師の質問に対しての受け答え、看護師とのちょっとした言葉のやり取りぐらいで、一日のほとんどは沈黙の中で過ごす。楽しいことが頭の中に浮かぶことなんて高校時代の同級生と新宿の繁華街で偶然に合う確率ぐらい僅かである。

食事も各々のベッドの上で誰と話すわけでもなく、ただ義務的に口の中に運ぶといったぐあいである。

これで、体の中には容赦なく抗がん剤を流し込まれるのだからたまったものではない。

では、どうしてそんな状況下を切り抜けることが出来たのか、それは考え方が切り替わったから。

死を覚悟した時点から死の恐怖から解放された、おかしな話かもしれないけど正直な話である。

自分と他人を隔てる壁がなくなっていた。みんな同じようなことを考え苦しんでいるんだ。自分の人生を振り返り、俺は何のために生きてきたのか。自分が死んだ後の家族はどうなるんだろう。出来ることならもう一度あれをしたい。あれは個々人により異なるけど、大体はこんなことが頭の中をいつも駆け巡っている。

そんな中でも「おはようございます、今日も外は天気が良いですね」なんて毒にも薬にもならないような内容ながら声を掛けると相手の心は和むらしく、硬い表情にわずかな笑みが浮かぶ。

それがきっかけとなり廊下で会うと挨拶するようになる。すると笑みは初めよりずっと良いものになっていく。動員される筋肉が増え表情が豊かになっていく。

次に、この人なら信頼できると感じると身の上話が口から出るようになり、 話しているうちに体が緩み背筋が僅かではあるが伸びてくる。

やがて食堂で一緒に食事をとるようになる。同じ釜の飯を食うという仲間意識が芽生えてくる。仲間が出来ると事態が進展しなくても苦しみは減少し、喜びは増す。「昨日よりも顔色が良いよ」なんて言うと「そうかい」なんて返ってくる。

同じ環境でほぼ同じ治療法で良くなっていく人と帰らぬ人となっていく人の違いは、こんなところから生まれてくるように思える。

日常の些細なことに喜びを感じることが、実は最も効果的な治療薬ではないか。

人と人が笑みを浮かべ挨拶を交わす、このことで相手と自分の間の隔たりが消え、私たちがこの世に生まれてきた出所に繋がっていくように感じる。

そのように感じさせる力が日本語にはあるという。いや、確かにある。これが外国語との大きな違いであるらしい。英語は、何時・何処で・誰が・何を明確に表す言語のようだ。これは情報を伝えるツールとしての意味合いが強いからではないか。

ところが、言葉は心を乗せる船と古代の日本人は考えていた。単なる情報交換をしているのではない。心のやり取りをしているのである。

日本語を構成する五十音の一音一音に心のエネルギーが込められていて、それをあげたり貰ったりするから枯れきった心の中に希望が湧いてくるようになる。

だから、心が先で身体は後になることが判ったのであった。

身体の影響を心は受けるが、身体が先で心が後という事はない。身体に現れた症状が取れれば病気が治るという事もない。

この事を病気を通して理解できた。病気をしたことは悪いことではない。そしてこのことを多くの人に伝えたい。

そのために日本語の持つ力をもっと理解したいと思っている。

最初に還ると、私のような名もない人間の文章に目を止めてくれる海外の人がいるなんて狐につままれたような気がする。

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