古事記と言霊2

以前の投稿からもう半年以上も過ぎてしまった。冬至から一番遠い夏至がつい数日ほど前のことであったのだから。

何か書きたくなるまで無理して書こうとする必要はないと思っていたので別段そのことが気になっていたわけではなかった。というよりも書くことを忘れていたというほうが正直なところである。

まぁ、自分の投稿に興味を示してくれる人などいないものと思っていた。

ところが思いもかけず2,3日前に「古事記と言霊」の投稿にコメントが寄せられているとのメールが届いた。

「はて、何のことやら」と半信半疑で見てみると英語でコメントが寄せられていたので二度驚いた。

判らない単語を辞書で調べながら読んでみると好意的なものであり嬉しかった。改めて自分が何を書いていたのかを読み返す。やはり言霊に関しては分かっていないことに気づかされた。

そんな状態でも何か書けることはないかと思った時に頭に浮かんだのはワインのことである。

知り合いに有機でしかも無農薬のブドウを栽培している人がいる。これはもうほとんど奇跡のようなことである。

私の住んでいる家の近くでも多くのブドウ農家があるが、農薬を使わない人は皆無である。ブドウも桃も果物はほとんど農薬漬けというのが実情である。出荷されるまでの間にいったい何回散布するのかと呆れるくらいの回数である。初夏ぐらいから秋の収穫が終わるまでの間毎朝どこかで誰かが農薬散布をしている。犬の散歩で必ずぶつかる、農薬回避ルートを見つけるのに一苦労する。撒かないのは雨の日ぐらいなのだから。

しかし、実際のところ農薬の一番の被害者は散布する生産者な気がする。食べるほうが綺麗なものでないと買わないという意識を変えれば、あんなに撒く必要もなく、それにシャインマスカットが普通のスーパーで一房1000円以上するような高額にもならないのではないかと思えてしまう。

個人的には甲州ブドウのように酸味と甘みが相まって奥行きのある味覚を作り出す方が好みである。甲州の白ワインの甘味の少ないスッキリとした透明感は、自己主張が控えめで料理を引き立てるにはもってこいの様に思える。ところが舞台を引き締める名わき役だと思っていたのが、樹木希林のように知らず知らずのうちに実は押しも押されもしない主役であった。

話を元に戻すと、無農薬のブドウと言霊とどのような関係があるのか、そう思われるであろうが私の中ではしっかりと繋がっている。

岡山に自然派ワインの醸造をしている人がいる。名前は忘れたが、この人はフランスで実績も上げていたらしい。そのままそこにいればそこそこのポジションを得ることが出来るはずなのに、何故か日本に戻り、奥様の実家がある岡山で改めて自然派ワインを作ることに挑戦したという。

とはいうものの、直ぐに自分が思うようなブドウが作れるはずもなく、休耕地にブドウの木を植えることから始めた。

ワイン醸造に安定した量のブドウが生産できるまでの間、どこかでブドウを調達しなければ仕事にならない。そこで色々調べてたどり着いたのが私の知り合いのブドウ生産者であったらしい。ちなみにこの生産者はオリジナルの赤ワインを醸造元に頼んで作ってもらっているが、これがのどを通り過ぎる時の心地よさと言ったら文字に表せないぐらいの快を与えてくれる。身体が緩んでくるのである。

で、なんでブドウと言霊が繋がるのか、それはこの醸造家が日本に戻った理由にある。

子供たちに日本人の心を知ってほしかったから彼はフランスから日本に戻る決意をしたという。

醸造家を特集した番組の中でこの人が子供たちに知ってほしかった日本人の心とは、相手のことを自分のことのように思えること。自分があの人だったらきっとこうするだろう、こうした想像力が働き実際に行動に移せるところが日本人の素晴らしいことだと言っていた。

フランス人の中で生活していたら、子供たちがこの日本人なら普通に出来ることが出来なくなってしまう事への危機感があったそうだ。

そしてここからがミソなのだが、日本人がこうした心配りがごく自然に出来るのは日本語を話しているから。日本語には自分と相手との隔たりを取り除いてくれる不思議な力が秘められている。このことを古事記と言霊を読んで教わった。

日本語を構成する五十音の全ては母音と繋がっている。一音一音が独立した存在である。

この事は世界の言語の中で唯一日本語にだけにある特徴だという。言語に関しての専門的な知識のない私が言うのはおこがましいことであるが、学生時代に学習した英語を見てみると子音で終わる単語が実に多い。そして末尾の子音はほとんど発音しないか微かに聞こえる程度のような気がする。しかも単語と単語をつなげて、その接続部分は音が変化する。

日本語にはこのようなことがないので、何を言っているのかさっぱりわからない。

多くの日本人が英語の会話能力を身に着けようとしてもなかなか難しいのはここにあるのではないかと感じてしまう。

そして、あくまでも個人的な印象に過ぎないが、ひとつひとつの言葉を日本語ほど大切にしていないように思える。言葉はあくまでも情報伝達手段という考え方が根底にあるのではないか。

それは、英語は配置の言葉とNHKのラジオ英会話の講師大西先生は言うように、いつ、何処でで誰が何をしたかといくことが明確に分かるように、決められた配置に言葉を置いていくことで構成されている。

ある程度時間をかけて文法と言われるこのシステムを覚えていけば、自分が言いたいある程度のことは言えるという理屈になる。

でも多くの人は話せない、そのそもそもの一番の理由は、ネイティブスピーカーと言われる英語を母国語として話す人々は、多くの情報を効率的に短時間で伝えるために、巻き舌気味に機関銃のように単語をやたらと短縮してつなげていくからではないか。しかも説明がたらたらと長く続く。

単語の一音一音に気を配っているような感じが聞いていて感じられない。

心に残ることを話す日本人は、一つ一つの言葉を丁寧に話す。「古事記と言霊」の中にも書かれているが、日本語の言葉は心を運ぶ船であり、その人の心の波長が言葉の中に乗っているので聞いていて心地よい。

何を言っているかその内容を精査する以前にその音の調べに引き込まれていく。すると自分と相手との距離というのは近づいて行くのではないか。

言語をあくまでも情報伝達のツールという考え方に基づいて言葉を発すれば、正確に伝えることにまずは意識が向けられるので、過去か現在かといった時世や単数か複数化、誰のものかといったことを区別して話すことになる。

その結果として、相手と自分の距離というものを適度に保つことが必要になる、良いか悪いかは別にして。

日本語の場合、過去か現在か未来かなんていちいち区別しなくても話の流れでわかる。誰の経験か、誰の所有物かなんてのも名詞の前に所有格を付ける必要はない。

自分は自分で相手は相手という区別をあえてしないのは、言語を構成する一音一音が全てに母音が含まれるからであるらしい。

あ、い、う、え、お、この五つの母音は大自然に由来するもので本来は音として存在するものではないらしい。

風の音、水の流れる音、こうした自然現象は本来音を発するものではなく、周波数として存在する。それを人間の意志というか感性が音として受け取るそうである。

鈴虫やヒグラシの発する音の中に季節の移ろいやそれに伴う心の動きを情緒として感ずるというのは、日本人固有のものだと聞いたことがある。西欧人には単なる雑音にしか聞こえないそうだ。

植物や動物と人間の間に明確な区別があるとそうなるようだ。虫や鳥も同じ生き物じゃない、あなたも私も同じ人間じゃない、こういう親近感を生むものの正体が実は母音であると、古事記と言霊の中には書いてあった。

言語が環境を作るというか雰囲気を醸し出すというところはあるように思える。知ってか知らないかは分からないが、この自然派ワインの醸造家は、こうしたものを子供たちに身に着けてほしいから日本に戻って来た気がする。

相手と自分の隔たりを取る、古事記に書かれている、天照大神の天岩戸開きというのもこの心の壁、自分と他者との分け隔てを取ると目の前に広がる世界は光輝くという事のように思える。

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