冬至

何か書こうかと思いながらなかなかキーボードに手が向かわなかった。別に書くかなくても誰にも何も言われないのだから気にしなくても別段どうってことない。けれど何か気になる、おそらく潜在的に何か書きたいという欲求があるからであろう。

私の場合は書きたくなるまで待っている。いつそれが来るのか分からないけれど、頭の中にモヤモヤしたものを抱えながら他のことをしている。

「気と水の身体論」に向かっていた時は、この待つという事が出来なかった。モヤモヤとした脳の天井にシールドを掛けられたようなうっとうしさが嫌で嫌でたまらず、無理やり気張ってうんこを押し出すようにキーボードを叩いたり、ペンを走らせたりしていた。

そうすると決まって重苦しい疲れだけが残り、書いてみたものを読み直すと破りたくなった。

才能のない自分に腹が立ち、ああしろこうしろと指図する編集者が憎らしくなった。大体意地が悪いところがあるから、もしあいつを殺すとしたらどういう方法が良いだろうか。

こんなことまで考える始末であった。拳銃や刃物を使うのであれば、それはその道に通じた人がすればいい。手技者であれば、どう痕跡を残さずにその方向に向かわせられるであろうか。先ずは相手の弱いところをじっくり考え直してみる。これに関しては誰よりも詳しい自負がある。アイデアは次々と浮かぶ。これがけんっこう楽しいもので、そのうちに手を触れずに言葉で誘導して目的を達成するというところまで行ってしまう。

頭の中でだけ完結してしまうと満足するところがある、体癖で云う1種的な思考(空想に遊んで現実を見ない)が完成すると、今度は2種的な客観的視点が頭をよぎる「自分はこんなことをしていて良いのであろうか、人を呪わば穴二つと言うが、自分の身に何か降りかかってきたら大変だ。この小心さが自己嫌悪を誘う。

結局のところばかばかしくなることで幕を閉じる。まぁ、こんなことを何度となく繰り返していた。思うようにいかなくなると誰かのせいにしたくなるというのが人情だが、ここから抜け出さないと新しい展開は生まれない。「それはそれで仕方ない、さて、今何が出来るか」

くしくもこの事に気がついたのがリンパ腫に罹ったためであった。だから、大病するのも決して悪いことばかりではない。

このところ少しは成長したのか、もうこうすることはしない。分からないものを分からないままに留めておく。そのうち何とかなるだろうと信じる。

それでもってさしあたり興味を引くことにエネルギーを傾ける。誰も文句を言う人はいないのだから何かを気にする必要などない。

こうしていると忘れたころに「もしかしてこうすれば良いんじゃない、何処からともなく考えが浮かぶ」

犬の昼寝を横目にそんなことを考えたりする今日この頃、そうそう今日は冬至、この日を起点に明日から少しずつ日が伸びる再生の日。

キリストの生誕の日と言われるクリスマスもこれに由来するのではないかという説もあるとのこと。実のところキリストがいつ生まれたのかは分かっていないらしい。厩舎で生まれるくらいであるから誕生日が判らない方が自然と言えば自然かもしれない。

好転の兆しを見ることが大事であることは確かで、体の変わり目もよくよく注意していないと分からないものであることは経験上知っている。

明るい方角を見ながら生きていこうと決意を新たにする。

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