十月になって

また気がつけば半月が過ぎ十月に入ってしまった。一昨年の十月一日にこちらに越してきたのでちょうど二年が経過したことになる。

犬のさくらは四月一日に我が家に来たので半年になる。

犬との暮らしにより、私ら夫婦のこの家での暮らしが何となく落ち着いてきたような気がする。朝が苦手で私より早く起きたことのなかった妻が、さくらとの散歩のために五時半前には必ずベッドから出る。着替えて洗面し、犬の餌を用意して六時前には出発する。六時半のラジオ体操の放送が始まる頃には戻って来て庭につないで水を飲ませ、私たちより前に朝食を取らせる。

それから家の中に入って朝食の準備を始め、七時の時報を合図に私は珈琲を落とす。

朝食は珈琲にバジルとチーズをのせたトースト、豆乳ヨーグルトに果物を少々というのが定番で、こんな感じで我が家の一日は始まる。

生活にはリズムが必要であることを今までに増して思い知らされる。

自分たちだけでなく犬がどうしているのかを常に気にかけなければならないことに最初のうちは負担を感じていたが、張り合いに思えてきた。

物言わぬものが何を要求しているのか、どんな状態でいるのかを想像することは実に楽しいことであることに気がついた。

水が飲みたいのかうんこがしたいのか、腹が空いているのか、はたまた遊んでもらいたいのか。

人間観察と同様に興味を持ってみていると次第に行動パターンというものが見えてくる。

犬とて生き物で人間と同じ傾向がある。

人間は自分の中のエネルギーが満ちている時には自発的に動く。なぜって自信があるから。今日はこうしよう、何を食べようとあくまでも自分の意思に基づいて決断し行動する。

それが、エネルギーが減少してくると何となく自信が持てなくなるので誰かの意見を聞きたくなる。

例えばお昼を職場の同僚と食べに行ったとする。メニューを見ながら「今日は何にする」と人の意見を聞いてから自分が何を食べるか選ぶ。特に疲れているとたいがいの場合は「じゃぁ、俺もそれにする」と考えること自体を省略しようとする。

昼食に何を食べるのかすら決断できなくなる。こういう時には左肩が上がる。

一方、進んで決断できる時には右肩が上がる。どちらの方が上がっているかで人間の行動は全く逆になる。身体にはこちらに傾けばこうなるという一定の法則があり、私たちはそれに従って動かされている。自分の意志で動いているように見えても、肉体という他の生き物を基に作られた物体に左右されている面が非常に多い。

犬は自分で食べるものを決める自由は与えられていない、自分を強く主張できるのは散歩の時にどちらの方向に向かうか行動で示す。

右に行こうとしても行きたくない時はそれを体を張って拒否する。断固拒否する時は地面にしゃがみ込む。全身に力を漲らせこちらの目を見て訴える。「何をこやつ犬の分際で!」とムカッと来るがその勢いに気圧される時がある。

ここまで言うのならよっぽどのことかもしれないと受け入れてしまう。まぁ、そちらに行ったところで何がどうということもなくいつもの様子で歩いている。

たんに犬のエネルギーのほうが私のエネルギーよりも高いのである。こんな時は散歩から帰ると直ちにご飯を要求する。そして、あっという間に食べてしまう。

反対に、素直に従う時や、クンクンと臭いを嗅いでうろつきまわることが少ない時はご飯をあまり食べたがらない。

犬小屋の奥に引っ込んでいて、こちらが遊んでやろうと思って近づいて行っても応じようとしない。

散歩の時のリードを引く勢いの強い弱いに犬のエネルギーの状態が映し出されるように思われる。

その時のエネルギーの状態が素直に態度に反映されるから分かりやすい。あまり回りくどいことをしない、そして後に引かないのでさっぱりしていて付き合いやすい。

人間だと「ちょっとあそこの店の何々が食べたい」と言うので買ってくると、たいして食べもしないで知らん顔していることなど病人にはよくある。

要は自分のわがままをどれくらい聞いてくれるかで自分の存在価値を確かめようとしている。

犬は、そうした前哨戦など一切なく生の感情を素直にぶつけてくるので観ていて面白いし本当にいろいろと勉強になる。

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