前回は山下清氏について書こうと思っていたら、いつの間にか兄の話題に移ってしまった。
自分でも予期せぬことであった。兄についてはあまり考えたくないし、触れても欲しくないことであるから。
それはそうと素人の書く文章であるから、まるでよもや話のようにコロコロと思わぬ方向に転がってしまう。
心とは、コロコロと転がるように動くことが語源だと聞いたことがある。
確かに自分でも次に何を考えるかまるで制御不能で、犬の行動のようなものだと感じる。
犬を散歩させていると、どっちの方向に向かうか見当がつかないことがよくある。
気になったが最後その方向に何が何でも向かわずにはいられない。「やめろと言われても」心に火がついたらもう遅すぎる。きっと人間の言葉が喋れたら我が家の犬さくらはそう言うと思う。
何時でもそうかというとそんなことはなく、大体は安定しているのだが何かのきっかけで眠っていた本能が目を覚ます。
そしていったん火がついたら燃えきるまで治まらない。面白いことに出きってしまうと何事もなかったかのように涼しい顔をしている。まるで別の犬であるかのように。
こうした現象は何も犬に限ったことではない、人間であっても誰にも打ち明けられずに胸の奥にしまっていた思いがいったん外に漏れだすと洪水のように出てくる。
最初はちょろちょろと流れていたものがある時点を境に急に水かさを増し、あらゆるものを飲み込む荒ぶる神のように流れるのと同じように。
そうなると、顔は紅潮し身振り手振りも大きくなり声にも張りがあり、そのエネルギーの凄まじさときたら相当なものである。
考えてみればこんな膨大なエネルギーを体の奥に溜め込んでいたら調子が悪くなるのは当然のことで、聞くほうはエネルギーを吸い取られるので疲れる。
人と動物、人と人の交流というのは多かれ少なかれこうしたエネルギーのやり取りであり、与えたり貰ったりしている。与えれば、どういうかたちにしろ与えられる。
施術というのも一時的には自分のエネルギーを相手に注ぎ込むが、そこで下手にエコ運転をしようとするとかえって消耗してしまうこともよくある。
急いでいて近道をしようとすると逆に遅くなるようなもののように。
操作している様で実は操作させてもらっているのかもしれない。どうやっていいか分からない時には、自分の胸の中の存在に「どうしたらいいか教えてください」と素直に頭を下げる。すると、手は勝手に動いてくれる。どこまですればいいかも、手が相手から離れることで教えてくれる。
大事なことは自分をフラットな状態に持っていくこと。
やっと山下清氏のことに触れられる。
感心したのは、作品を旅をしながら心を動かされた場所ですぐさま描き出すのではなく、旅から帰って来て施設において、それも3年とか4年という時間が流れた後に描いたという話であった。
そして、見たままを忠実に絵として再現するのではなく自分の中で再構成したようだ。
自分が何に感動したのかを一つ一つ明確に表している。花火大会の情景を作品にしたものが多かったが、観客の一人ひとりに花火を見たことで動いた心がきちんと乗っていると感じられた。
多くの観客をだいたいこんな感じとザックリと描いているのではなく、この人はこんな感じだったんだろうという個々の思いがそこには確かにある気がした。実際に作品を目の当たりにしたのではなく、あくまでも画面を通してのものでしかないのにそうとしか思えないのだ。
きっと山下氏は描きたいと感じた光景を「もういい」感じるまでずっと一心に観ていたのではないか、光のシャワーをこれでもかというくらい浴びるように。
そして、3年か4年の期間を通して酒を熟成させるように雑味を取ったり温度管理をしたりして手を入れながら熟成させていったのではないか。
心にどうやって手を入れるのか、それはおそらく関心を持ちながらそっと置いておくことだと想像する。
自分に置き換えてみると施術をした後に良かったとも悪かったとも何とも云ってこない人がよくいる。
そうした場合、感心をもって無関心を装うようにしている。こちらからは何も言わない。
これはモヤモヤして心地よいものではないが、そうした思いをそのまま受け止めるのも仕事のうちであり、むしろこれが一番難しい仕事なのかもしれない。
自分の思うように運ぼうとせずに、川の流れに乗って進むように良い方向に行くことを信じて成り行きに任せる。
山下氏は数多くの作品を残しているのだから、心のあっちこっちにそうした仕込み中の作品を貯蔵していたのだからかなり大変ではなかったかと思う。
時として沈痛な表情をしていたのもそうした目には見えないところで仕事をしていたからであろう。
よくよく見てみると人も動物も受け取れないくらいの膨大な情報を発信している気がする。
見方をちょっと変えると世の中は楽しい。