山下清を見て思い出したこと

今年は切り絵画家山下清氏の生誕百年にあたるらしい。この人がどのように生きたかについての番組を録画していたのを思い出して観た。

山下氏は施設と旅暮らしを交互に繰り返して一生を過ごしていたとのこと。ある日ぷいと居なくなる、半年や一年の放浪は日常茶飯事のことであったようだ。

もう亡くなられて半世紀ほどたつが生前の山下氏を知る人が何人かおられてインタビューに答えていた。

その方々は当時を思い出すと自然と笑みがこぼれてくる。きっと脳裏はセピア色に染められているんだろう、どこか遠い目で宝物を取り出しているかのように語っていた。

絣の着物にリュックを担いで知らない街に足を運ぶなんてことはとても出来ないが、こんなふうに人から思われる人間になりたいと無理なことはわかっていてもツイ考えてしまう。

映像を見る限り人からどのようにみられるかなんて気にするところは微塵もない。

ただ絵を描くことが好きだからその気持ちに素直に従った人生のようだった。人に対しても率直であったから、お腹がすいていれば周りの人は「これをどうぞ」と快く提供したのではないか。

人と人の繋がりがとてもシンプルな時代でもあったのかもしれない。

この人は自分が知的障害者であることに負い目というものを持っていなかったのではないか。

自分を肯定的に捉えているから素直でいられるのだと思う。

私にも知的障害の兄がいる。彼は自分のことが好きでないようで、機嫌のいい時もあるが重苦しい表情をしていることが多かった。

母は兄に負い目を感じていた。自分のせいで兄がそうなったと思っていた節があった。

妊娠中に医師から「お腹の子は生まれてきたとしても何らかの障害が出る。この子にとってもあなたたち夫婦にとっても重荷となるから今回はあきらめた方がいいと思う」と告げられたらしい。

両親は悩んだ後に医師の提案を受け入れて中絶手術を受けるために病院に行った。手術室に入って「さぁ、これから始めます」という段になって父の姉がそこに割り込んできて「カトリックでは中絶は禁止です。貴方たちのやろうとしていることを私は許さない」と言ってそこで大立ち回りを演じたので、手術は中止になった。

叔母は「神様は信じるが人は信じない」と言い切るぐらい屈折した人間であった。

そうした経緯が何かにつけ頭をよぎるので母は兄と真正面から向き合うことを死ぬまで避けていた。

自分の子供に障害があることも認めたくなかったのであろう。「あの子は馬鹿じゃない」と事あるごとに言っていた。その反面「それをやっちゃダメ」と兄に注意しているところを見たことがなかった。よって彼は家の中では自分がルールという生き方をしていた。

王様のように振舞っていたわけではなく、どこか遠慮がちで、それでいて不遜な態度をとる。

虫の居所が悪い時には決まって何か意地悪をする。これが実に稚拙なもので取るに足らないようなことだったが、はっきりとした悪意が込められていたので何とも感じの悪いものがあった。

顔を合わせると「お前のせいで俺は不幸せだ」その目が強くそう主張していた。

「なんで?」

何がどうしてそうなるのか全く謎であった。いつも最後は私が悪者にされていた。

こちらからすれば「それはないだろ」という話になり時として感情的にもなる。すると母は「我慢して」の一点張りで、最後には「どうして二人しかいない兄弟なのに仲良く出来ないの」このきめ台詞で幕を引いていた。

この一言も、どうすればそういう言葉が出てくるのか理解できなかった。

母はピンチをすり抜けるのが得意であった。事を荒立てないということに関しては凄い才能の持ち主であった。そして都合が悪いことから絶妙なタイミングでいつの間にか離れていった。

いつも笑顔を絶やさなかったから悪く言う人はいなかった。

亡くなった時など、みんなから「おばちゃんがいなくなって寂しい」と惜しまれた。

兄は母よりもむしろ叔母に似ていたような気がする。

彼は大したことはしなかったが自分の都合の悪いことをした時は大声を出す、すると母が言い分を受け入れる。これが彼の勝利の方程式となり以後母が亡くなるまでずっとこの行動パターンを繰り返していた。

これは都合が良いようで決して良いものではない。病気を痛み止めで紛らすようなもので本質的なところに手を付けないので必ず代償が残る。自己嫌悪がそのあと襲ってくるのであろう。

重苦しさから言葉にならないうめきのようなものが彼の部屋から空気に乗って伝わってきた。

自分を否定し、周りの人も否定するそんな生き方をずっとしてきた。

兄にだって好きなことはあった。機械を分解することが好きで、時計などをよくバラバラにしていた。しかし、それをもう一度組み立てることはなかった。

何か一人でできる手仕事か簡単な組み立てのような作業をすればいいと思っていたが、母は彼にマッサージを覚えさせようとしていた。

自立させたかったみたいだ。

しかし現実的に人とのコミュニケーション能力は著しく欠けていたので「それは止めた方がいいと思うよ」と言うと「あの子は馬鹿じゃない、あんたに迷惑はかけない」とこれもいつもの決まり文句で私の話など聞こうともしなかった。

そのくせ何かあると後始末が回ってくる。

凄く困った顔で頼まれると嫌とは言えず引き受けてしまった。始末が済むと兄からは「いい気なもんだよな」と恨み節が飛んでくる。

まぁ、振り返ってみると母が亡くなった四年前まで同じようなことの繰り返しをずっと続けてきた。

山下清氏のようにはなれないにしても、無理して健常者に合わそうとするようなことをしなければあんなに捻くれることもなかったのではないか。

兄の世話をしてくれる障害者施設の人も「もう少し素直になれると良いのに」と言っていた。

ありのままを受け入れられることがあれば彼の人生も違っていたのかもしれない。

今後はなんとか集団生活を過ごしてくれればいいと思っている。

感情が直にぶつかるので家族の問題というのは解決することが難しい。

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