古事記と言霊について

峰岸さんについて書いてからもう半月以上が過ぎてしまった。この間何をやっていたかと言えば、「古事記と言霊」という本と睨めっこをしていた。もちろんずっとこの本と格闘していたわけではないが、この本のことが頭から離れない。

甲府の暑さも思考能力を低下させるには十分すぎるものなので、朦朧としていたのも確かなこと。

我が家の黒柴は、この暑さで相当にへこたれている。普段の半分ぐらいしかご飯を食べない。

散歩に行ってもハァハァして足が止まる。呼吸が整うまで一緒に立ち止まっていると蚊の餌食になる。まぁ、その痒いことといったら。こちらも汗ばんでいるので、蚊からすれば吸ってくださいと誘惑しているようなものなのかもしれない。

仕方ないと思いつつも早く家に戻りたくて苛々する。

そうしたこちらの事情などお構いなしにアスファルトの上にお座りしている犬を見ているとどうにも我慢が効かなくなって抱えて歩き出す始末である。

「やはり自分は馬鹿だなぁ、昔と何にも変わらない」と自分の姿に白旗を上げて笑いだしてしまう。

「古事記と言霊」が寝ても覚めても頭から離れない。まるで恋煩いで、こんなこと野口春哉氏の「体癖」以来のこと。

1ページ読み進めるのに長い時は2,3日かかってしまう。

古事記には序盤に神様が100柱登場する。神様は柱で数えられる。この名前を見ているだけで頭がグルグルしてくる。20年ぐらい前にほんの思い付きで古事記の現代語訳を読んだ時に、そのややこしい名前に何の意味があるのかと自分のしていることに疑問符がついて立ち止まってしまった。

気にはなるのだけれどそれ以来見ないようにしていた。

それが、ユーチューブでこの本を紹介している人がなかなかの人物に思えたのでちょっと読んでみるかと思ったのが事のはじまり。

軽い気持ちで読み始めてみると、これは本腰を入れないと理解できないことに気がついた。

そこで覚悟が出来るか出来ないかが運命の分かれ道、何事もしっかりと向き合う覚悟があれば問題は切り抜けられることを病気を通して教えられた。

自分が生かされたのもこの本とまだ出合っていなかったからだったのかもしれないと真面目に思ってしまう程素晴らしいものだ。何がなんだか分からないのだけれど妙に引き付けられるものがある。

綺麗だけれどいい女とは言えない人がいる一方、何が良いのか分からないけれど不思議に引き付けられる女性がいるようなものかもしれない。後者に引っかかってしまったようなものだ。

分からないままに毎日それなりに目を通していると薄っすらながらアンテナに引っかかってくるものがあるようになってきた。こうなるまでにかなりのエネルギーをつぎ込んだ。

この本のどこに姿勢を正して向かい合う価値があるかと云えば、目に見えるものと目に見えないものの関係について克明に記されているところだと思う。

天(あめ)と地(つち)がついた神様がまことに多く登場する。天は目に見えない世界、地は目に見える世界を表している。

この目には見えない世界というものがどのようなものか以前から気になって仕方がなかった。しかし、それを調べる術が見いだせなかった。

野口春哉氏の体癖では、形には意味があることを教えてもらった。同じ種類の生き物であっても四角い、丸い、細長いなどの個としての特徴が現れる。そうした形状に分かれるのにはそれなりの意味がある。丸いなら丸くなるような動きをするからそうなるのであって、それは動きにより体のどこに力がかかるかが分かれてくるから。同じような体型の人は同じようなところに力を入れるので、動作も似通っている。

そして、そうした動きを生み出す背景には、体の内側から湧き出る欲求があり、何に興味があるか、例えば食べること・儲けること・勝つこと・愛情を与えることや受けること・人からよく見られたい、など大まかな価値観も共有している。

この目に見えない内側から湧き上がる欲求とは何か、野口氏は気と捉えていた。

それでは一体気とはどのようなものなのか?ここから先は自分で見つけなさい、といわれていたような気がしていた。

手で感じ味わうものだと思っていた。それに間違いはないと信じているが、もっと何かあるような気がしていて分からず仕舞いであった。

目に見えない形以前のエネルギーを霊とか気と「古事記と言霊」の本には書かれている。そしてそれがどのような経路をたどって目に見える世界へ現れてくるのかを、何千年いや何万年も前の日本人はすでに知っていたという事実がここには記されている。

私たちが日本史の授業で教わった古事記とは別次元の内容があることを教えてくれる。

しかも、科学が全く存在しなかった時代に、現代の最先端科学である素粒子の世界を古代人は当たり前のこととして感じていたらしい。

知らないことを努力してわかるようになるのではなく、生まれた時から当たり前のこととして知っていたみたいだ。

修行して修行して神様に近づいて行くのではなく、生まれた時から神様は自分の内側にいることを知っているようなものなのかもしれない。

疑う余地のないものとしてしっかり心に根付いている。

このような感覚は日本人以外にはないという。以前は、結婚式は教会で葬式はお寺で当たり前のようにする日本人は節操がないのではないかと考えていた。しかし別段それに違和感があるのではなかった。

今考えると、節操がないのではなく寛容なのだと思う。寛容であるから信じることが出来るのではないか。

目に見えない世界のことが信じられないから保険の契約書のような、読んでも分からないようなことを並び立てて身の安全を担保するようなことを西洋では考え付いたのではないか。

そしてどんなに細かいところまで詰めていっても結局のところ分からないことを彼らは知らされたのではないか。

目に見えないけれど物事を生み出す世界があることを理屈抜きにわかってしまえるのは日本語という言語を私たちは使っているから。

日本語を構成する五十音の一つ一つには言霊という力があるという。その力がどのようにして生まれるのかということがこの本には書かれている。

一音一音の中に神が宿り、それが空中を飛来して人の心に届くとき様々な現象が生まれるという。

たしかに。病室で医師や看護師、清掃の人など会う人会う人に「ありがとう」を言っていたら事態は信じられないくらい好転していった。担当医師が教授に「こんなこと有り得ないですよ先生」と言ってくれたのも薬の力ではなかったと思っている。

この人たちの心が私に力を与えてくれた。心が言葉に乗り人の心に届く。それが自然と調和するから思わぬ力が発揮する、それを導き出すことが日本語にはできる。

こうしたことがこの本を読んでいると再確認できる。

思いもかけなかったことを知らされて、この2,3カ月は夢うつつの状態になってしまった。50代最後の年に恋煩いを味わえるなんてなんて幸せなことであろう。

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