五月も明日でお終い、時間が過ぎるのは残酷なくらい早い。五十代最後の年なのだから何となく過ごすのではなく、それなりに意識していこうと思ったものの、やはりあれよあれよという感じで時間は消費されていく。
まぁ、それでもそれなりに楽しいのでこれで良い感じがする。そう思えるのはやはりさくらが我が家に来てくれたおかげであることは確か。
適当に良い感じで振りまわしてくれるので、自分のペースで物事が進まないことが功を奏している。例えば、何かに集中しようとする時に窓の外から視線が部屋の中に飛び込んでくる。「済みませんがちょっとよろしいですか」このような丁重なものではなく、ノックもせずにいきなり入り込んでくるようなぶっきらぼうとも思える視線である。
はっきりとした意思を持っている、「そろそろお散歩の時間であることをお忘れですか」というメッセージが目に込められている。そして微動だにしない凛とした佇まいでその視線を投げ込んでくる、まるで往年の江夏投手のような存在感で。
直ぐに了解したのでは犬に屈服するような感じもするし。だいいちやろうとしていることがあるのだからそれを優先させる。
一時はこれを犬も受け入れる、しかしあくまでも一時。しびれを切らせてさらに強い視線とともに吐息も網戸越しに入ってくる。犬の吐く二酸化炭素 など吸いたくはない、だが熱い吐息を吐きかけてくれるのはこの犬をおいてほかに誰もいないので貴重な存在であることも事実。何事も受け入れることから始まる、ちょっとうるさいものが実は素晴らしい贈り物であることが判っただけでも我ながら進歩である。
仕方ないという感じで外に出ていくと、「待ってました何時でも行けます」と気合十分。
そうだよな、日中の熱いうちは日陰で寝て過ごし100%充電は完了しているのだから。
「さぁ行くよ」とわき目も触れずに突き進んでいく。そんなに急いでどこへ行く?と思っていると急に立ち止まって草むらの中に頭を突っ込む。クンクン鼻息が荒い。そしてまた先を急ぐ。この繰り返し。でも、いつも自分勝手かと云うとそんなことはない。
分岐点に差し掛かるとこちらがどっちに行きたいか気配を寸時にくみ取る勘の良さがある。
実に鋭く人のことを観察している。昨晩、私たちは些細なことで言い争いになった。この不穏な空気を読み取って寝ているはずの犬はざわざわとゲージの中で動き出した。
リビングとさくらがいる玄関とは結構離れているのに、目に見えない様子を窺っている気配がこちらにも感じ取れる。念を送ってくれていたのかもしれない、お散歩の時とは違う静かで柔らかい波長のものを。
そして、居たたまれなくなってさくらのところに行くと彼は寝転んでいなかった、きちんとお座りした姿勢で迎えてくれた。そしてゲージ中から私の手を丁寧に舐めてくれた。
それは、庭でイヌの毛をブラシで漉き取っている時に舐めてくれる時とはまるで違う気遣いがあった。ブラッシングの時は何となく手持ちぶささでしている軽い感じのナメナメであるが、昨夜は舌に念が入っていた。「クールダウン」というメッセージ付きの。
気を使っていてくれた、そのせいか今朝は幾分元気がなかった。ゲージの上に目隠しのためにかぶせてあるタオルを取りに行くと猫のように丸くなっていて、ちょっとけだるい視線で見上げていた。
妻が散歩に連れて行ったがやはりいつものようなはつらつとした感じがなかったという。
彼のお陰で言い争いもこれまでのように過激なものとはならなかった。明らかに抑止力になった。空母並みの能力を秘めている。ありがとう、さくら。
そうだ、アメリカと中国の間にもさくらのような存在がいれば良いのに。