朗読

昨日、日曜礼拝のために雨の中教会に行った。ミサの中でエレミヤの預言という一文を読むことになっていたので。人前で朗読するというのは緊張する。小学生に戻ったような気もした。とちるのは恥ずかしかったので何度か練習した中で気がついたのだが、間違えずに読むことは結構難しい。読んでその意味が理解できるのに実際に口から出るのが違う言葉であったりする。「かえりみて他を言う」という諺があるが本当にその通りだと感じた。

名前は忘れたが作家であり女優でもある方が、詩や小説の朗読はすごく緊張して疲れる。芝居で台詞を言うのと同じぐらいのエネルギーを消費する、そんな感じのことをテレビで話していたのを思い出した。プロがそうなのだから自分が緊張するのは無理もない。

それと左近の事情からマスク着用での朗読であるから声を出しにくく、取って捨てたい衝動に駆られた。神の前でこうなのだから呆れてしまう。

しかし勉強になったこともあった。私の次の方が朗読したヨハネの福音の中に次のような一節があった。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」

これをそのままに受け取ると、自分の命を粗末にして死ぬ人は天国に行ける。このように受け取れるように思われる。しかし、そもそも日本語で書かれたものではないので、表現の仕方が日本人の感覚と合わないところがある。

英語でも、「部屋の中に入りましょう」というのを「どうして部屋の中に入らないんですか」と逆説的な問いかけをすることで部屋の中に入ることを促すといった表現をすることがある。

この一節の趣旨も自分の命に固執して死を恐れるべきではない。世の中は命をつなぐことが大切で、一つの死が次の生を生み出すので、自分が死んだことで他を生かすことに繋がる。

こう言ったことを教えてくれているのだと思う。キリストの復活というのも、意味はいろいろとあるかもしれないが生命現象から見るとこのような一面もある気がする。

肉体は消えてなくなるけれど魂は無くなるわけではないという意味ももちろんあると思う。

肉体と魂は完全に一体化したものではない。肉体は天からの借り物ではないかと最近は感じる。だから心と体がちぐはぐに動くということもある。常に思い通りになるのが当たり前だという考えは正解ではない。

また、借りているものなのだから大切にしなければならないし、ある時期が来たら返すのも当然ではないか。

そんなことを思い浮かべながら帰路についた。

一つでも勉強になると、今日は良い日だと思える。

エレミヤとは旧約聖書の中に出てくる預言者で

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です