ある動画を見ていたら次のようなことを言っていた。
悪は本当の顔を見せない、隠れてこそその力を発揮する。表面的には柔和で優しい人で、強面などもっての外。悪とは、一般的に人気のあるもので、一般常識のみの考えで、人にどう思われるかということを重視する。
そう云えば、一人気になる人物がいる。ある放送局の代表的なニュースキャスター、この方は人当りもよくラジオから聞こえてくる声音は実に温和で耳辺りが良い。楽に聞いていられる。言うことも実にごもっとも、ロジックは入り込む余地がないと思えるほど完璧。
変わり者の目からするとこれが何とも腑に落ちない。綺麗すぎて良くない女性を目にするように何処かに違和感を感じる。
ラジオはテレビほどの制約を受けないのか、話し手が多少なりともリラックスして話す印象がある。そうすると本来の自分がちらちらと顔を出す。聞き手にはそれが心地よい。「この人も自分と同じよなことを考えているんだ」と共感したような感じがして楽しい。
残念ながらこの著名なキャスターにはそうしたワクワク感を持てない、正しすぎて距離を感じる。
文句のつけられない学歴、それに頭脳明晰で努力家であろうことは明白。そうした人へのコンプレックスというのでもない。どこか徹底した自己管理の像を表現しているように思える。
心の中ではものすごい葛藤があるのかもしれない。この不快感は何かに向けられる。こうしたものと悪とは関係があるような気がする。もちろんこの人は善人でしょうけど。
生臭さを感じないと親しみが持てないからそう思える。
話は変わるが、亡くなった母も悪であったかもしれない。
母は頭脳明晰でも日常の言動が正しかったわけでもない。むしろ「それはどうよ?」と思えることをしても周囲からは恨まれもしなければ非難もされなかった。近所の人で母を悪く言う人は一人もいなかった。今でもいい人だったと言われる。
人を傷つけるようなことを言ったりしたりはしなかった。いつもニコニコしてちょいとズルをする。それがお茶目に映ったのかもしれない。
数え上げれば限がない。
10年以上前に庭の欅の背が伸びすぎたので切ってくれないかと頼まれたことがあった。もちろん異存はなかったので作業に取り掛かろうと、脚立と高枝切り鋏をもって庭に出た。すると母がやってきて「私が脚立を設置してあげる」と主張した。脚立も大きなものであったことと、自分が切るので自分でどこに置くかを決めた方がよいと思いその申し出を断った。しかし母は引かない。こちらも引かない。そこで二三度押し問答があり、母はその場から立ち去ろうとしたときに隣の木の枝を弓がしなるように弾かせた。それが屈んでいた私の眉間に命中。その瞬間に目の前は真っ白になり地面にふさぎ込んだ。
失明したにと本気で思ったが五分ぐらいすると強烈な痛みが和らいできた。恐る恐る目を開くとぼんやりではあるが見えてきた。良かった。しかし眉間は枝の節が当たったことで凹んでいた。触るとヒリヒリする。「おのれこの糞婆、目にもの見せてくれる。いや待てよ、老婆を怒鳴るのは大人げない。先ずは優しい口調から始めよう」と頭の中が一回転したのちに母を探したがそこにはいなかった。逃げたのだ、家のどこにもいない。「大丈夫」の一言もなく自分の身を案じて身を隠したのであった。
そして、2,3時間してほとぼりが冷めたころ何事もなかったかのような涼しい顔で帰ってきた。第一声が「あれ短くきれいに切れてるじゃん!良かった良かった!」
ごめんの一言もなくニコニコしている。こちらも呆気にとられて返す言葉がない。
「悪を見せないものが本当の悪」と以前に聞いたことがこの時思い出された。