日本語の不思議

大和言葉を学ぶ動画を見てみた。日本語は二本語である。二本とは目に見える世界と目に見えない世界の二つから構成されているから。

日本語を話すことで、目に見えることを通してその裏にある目には見えないものを推し量る、このような能力を育むことが出来るということらしい。

どうして?

それは日本語は主語がなくても意味が通じるから。例えば「あれ取って」といわれた時、相手の目線や発するエネルギーなどを通して自分に言っているのかな、ペンとはさみと紙がここにあるけどこの場合紙を指している、と察することが自然とできるのはどうも日本語独自のものであるという。

考えてみると英語学習では主語・動詞・目的語それに何時何処でということを提示するよう繰り返し念押しされる。

私と他をはっきりと区別する。そうしないと言わんとすることが通じない。

「こう思うんだけどね」とだけ言っても、それって誰のことという話になってしまう。

日本人は自分と他の間に隔たりというものを置かない感覚を誰かから教わるわけではなくそういうものだという本来あるべきもののように持っているという。

あえて言わなくても分かってもらえる、というしばしば誤解を生む厄介な習慣も表に出ているものを通してその裏にあるものを見る能力があるから出来ること。

自分に対して言っているのでなければ関係ないときっぱりしているのが海外の人の感覚らすると訳の分からないことになってしまう。

必要のないものにはあえて気を配るようなことはしない、という考えが根底にあるのだと思う。

先日の葡萄生産者の話と関連することだが、ここの葡萄を使って自然派ワインを生産する人が岡山にいる。

この人は数年前にフランスから日本に帰国し、現在岡山で休耕畑を葡萄畑に蘇らせる試みに取り組んでおられる。

思うような葡萄が出来るまではまだ時間がかかるので知り合いのところの完全にオーガニックな葡萄を取り寄せてワインを生産している。

そしてこの人がどうして日本に戻ってきたのかというと、二人のお嬢さんに日本人の心というものを学ばせたいからとのこと。

フランスの人たちは、あなたこれをして、いつまでにして、というようにはっきりと言われたことしかしない。この状況だとこれもしておいた方がいいだろう、というように相手の心情を推し量って行動するということがない、日本人には当たり前にあるものを当たり前に二人のお嬢さんが出来るようになるには日本で暮らすことがどうしても必要、このような思いから帰国を決意したという話であった。

目に見えるものを通して目に見えないものを読み取る、このことが言語の中に埋め込まれているとは言われるまで気がつかなかった。

癖をライフワークにしているのも正にこのためで、相手の言っていることを額面通りに受け取っていたのでは手技者としての能力は向上しない。息づかい・顔色・声のトーン・仕草・無意識に体のどこに力を入れるか、と言ったことを合わせて訴えていることと体の中で繰り広げられている生命活動を照合させるのが身体を観るということだと考えている。

癖はそれを教えてくれる。

こうしたことを日本という土壌が育んでいることに改めて感謝しなければ、と柔らかな日差しを浴びながら感じる。

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