反省とは

反省とはどういうことか、改めて問われると「さて何だろう?」と考えてしまう。「逆さに吊るされた男」田口ランディ著の中で曹洞宗総持寺貫首である板橋興宗禅師に尋ねるところがある。「反省とは?」すると禅師はあっさり答えた。「事件のことを、忘れてしまうことでしょうな」...「でも禅師、そんなこと言ったら、世間が許しませんよ」禅師はねめるように私を見た。「許さないのは、世間ではなく、あなたでしょう?」(p49)こんな行があった。これだけ聞くとまさに禅問答でトンチンカンになる。

このことをYに話すとそれについての彼のコメントが凄い。

「そんなふうにおっしゃる方がいるとは思いもしませんでしたから、ほっとしました」。

「...わかるような反省ではダメなんです。それでは反省とはいえないというか。反省しようとするのは反省していないことなのです」...「羽鳥よう子様。先日の『反省』について、少し付け加えておきます。私は『反省すること』をしない、ということの大切さを、林郁夫を見て学んだのだと思います。『反省する』という態度を自覚的にとる人を見て、違和感を覚えたのです。それを『することは』は『罪』と闘っているように思えたのです。私は自分が犯した『罪』と闘いたくなかった。このことをわかっていただけるでしょうか」(p50,51、52より抜粋)

人に反省しているように見える態度をとるということは勉強しているふりをする子供のようなものなのか。いや、Yは罪と闘うということは今の自分を認めたくないからそうしてしまうと言いたかったのか。

自分を否定する人は他者も否定する、自分が無理をしている人は他者にも無理を強いる。これは私の臨床経験から実感すること。

本当の自分は悪くないんだ、ただめぐり合わせとしてあんな事態になってしまった。こういう考えが心のどこかにあるから本当の自分とかりそめの自分を区別するために反省する。Yはそれは良くないと言いたいのか、そんなふうに感じた。

自他の壁をとる、最近よく聞くワンネス、みんな同じ源から分かれて出てきたものであるから一緒な存在という考えに至れば被害者も加害者もなくなる。よって反省する必要がなくなるということなのか。そうなるまでには被害者の立場に徹底的に立たねば至らないであろう。

病気である自分を受け入れる、このことから治療というものは始まると思うから、そう感じたのかもしれない。

大病を患う前は、自分自身も手技者として施術する側からしか病気というものを見ていなかった。しかし治る見込みのない病気になってみて病人とはどういう存在なのか初めて理解できた。

病気になった自分を許せなかった自分から、病気をしたことでいろんな事を学んでよかったと思える自分に変わった。それからがんが怖くなくなった。知人から「体は大丈夫」と聞かれても何のことかと思ってしまうぐらい気にならなくなった。たぶん卒業したのであろう。

忘れるとはそういうことなのかもしれない。

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