私のライフワークは人の癖を掘り下げて見ていくことです。言語化する前の意識が本人の意思とは別に肉体上に現れてしまう。そして、この現象には一定の法則がありその流れの中から外れるということはまずない。この法則のようなものを一般的には癖と呼んでいます。
イギリスの動物学者デズモンド・モリスは著書「舞い上がったサル」のなかで次のように述べています。
『人間研究に転ずる前、動物学者として私は、多種多様の魚類、鳥類、哺乳類の行動を研究してきた。それらの動物と話すことができなかったので、ひたすらその行動の仕方を観察することで研究を進めざるを得なかった。それと同じ方法を使ったらどうだという考えが、人間の行動を研究する際に頭にうかんだ。人間の話すことに耳を傾けるのではなく、人のすることを観察したらどうか。…
だが、人間の身体言語について言えば、私たちはひとりのこらず習慣の奴隷であるというのが真実である。酒か麻薬に酔っているか、一時的に発狂でもしないかぎり、いちじるしく限定された一連の個人的な身ぶり手ぶりから、私たちは自由になることができず、その身体言語は指紋と同じくらい私たちひとりひとりの特徴となっている。…鼻を拭くにしろ、靴を履くにしろ、たいがいは毎回、同じ動作でしているのだ。どんな名優でも、自分本来の身体言語とはまったく異質な身体言語を身につけるには、大変な努力が必要である。』(舞い上がったサル 飛鳥新社 中村保男訳 p12、13より)
三十数年間の手技者としての経験から感じることは、私を含めて多くの人は、自分をよく見せたい、弱い部分を見られたくない、という意識が働いてなかなか胸の内を語ろうとしない、出来ないというのが実情です。
語ろうとしても、何処からどう言えばいいのか分からなかったり、何を言いたいのか分からなかったりすることが実の多い。
こうしたことの整理がつかなくて胸の中がモヤモヤして気持ち悪い。漠然とした何かに振り回されています。
この実体のないものが身体に歪みをもたらします。
しかし、滞っていた流れが回復すると、ちょっとした仕草や身体に現れる筋肉の張りや緩みの中に隠れていた感情や思いが顔をのぞかせてしまうのです。
自分でも言ってしまった後に「どうしてあんなことを言ったんだろう」と、慌てて我に返るような場面を見ると、一見知らん顔をしているのですが実は職人冥利に尽きて悦に浸っています。
「まぁ、自分とさして変わらないな」と安心するのと同時に、こうした言葉に表せないものを表情やしぐさで表現することの面白さに取りつかれてしまったのです。
癖がどうしてできたんだろう、癖にはどんな意味があるんだろう、こうした疑問を紐解く強力なサポートをしてくれたのが野口春哉氏の著書「体癖Ⅰ、Ⅱ」です。
この本に出合ったことで様々なことを学び、今では人間観察が趣味になりました。動物にはあまり興味がありませんでしたが人間を知る上で、その形態や行動をよく見るようになりました。自分なりの試行錯誤により導かれたことは、進化の過程で様々な困難に直面し、これしか他に道はないという道を進んだことが結果的に今の私たちの身体を作り出したということです。癖というのはそうした歩みの軌跡のようなものだと思います。
考える以前に体に沸き起こる欲求の方向性が癖を生み、これが体型を作り出していくという流れを知ってもらいたいことから、癖の身体論を書こうと思い立ちました。
このブログを通して少しずつ掲載していきたいと考えております。