神について

今日はクリスマス、キリストの生誕を祝う日であることは言うまでもない。神とは何かについて考える日かもしれない。

昨日ユーチューブで興味深い話を聞きました。クリスマスの本当の意味とは、『私たちはすでに救われていることを知ることだ、というのだ。ゴルゴダの丘で磔になった時点で、この世において物質に重きを置いた世界よりも、精神を中心にした世界に転換された。権力に押しつぶされたのではなく、次元の違う世界に踏み込むためにキリストは敢えてこの刑を受け入れた。このことで私たちは救われたらしい。

そして私たちが救われた存在であることに気がつけば、自分のいる環境は変わっていく。何故なら、この世に存在するものは自分が考えたことが鏡のように逆に映し出されたものだから。』といった内容のことであった。

神社にご神体としておかれている鏡は、目に見える世界は目に見えない世界とは逆に映し出されたものであることを示すている、という古神道の考えとも一致するようだ。

また、物質と精神をつなぐ素粒子の世界とも似ている。

この動画を見たことは昨日一日を豊かにしてくれた。夕食の時に妻にこの話をしたら「良かったね」と言ってくれた。

神について、民族情報工学という立場から井戸理恵子氏は次のように述べている。

太古の日本人は神をどう捉えていたか。神という字は、示すと申すから構成されている。甲はサルとも読み、この字の中には日があり土もある。よって天と大地をとりまく自然も表しているという。

よって、示すことと自然を合わせると、自然が示すことが神ということになる。また、醸すとは神から派生した言葉であるらしい。神を観るということは、自然の中に醸し出された雰囲気を感じ取ることと古代の日本人は思っていたという。

自然界の状況を読み取ることが神との対話である、それは自然界には嘘偽りがないから。

そして神は細部に宿るともいう、これは手技を行う上でも心掛けていることで、細部の微妙な変化の中に生命の流れを見ることが出来るからで、聞いていて胸がキュンとした。

西洋人と日本人の神についての考え方の違いは、外に神を置くか自分の中に神を感じ取るかの違いだそうだ。神にたいして「天にましますわれらの父よ」言うのもこの世界観からかもしれない。

井戸氏によると日本人は、神を日常の心の拠り所として考えていた。身の回りで起こる分からないことを分からないままにしておけないので、祀るという形で心を治めていた。道祖神や神棚はそうしたことの表れであり、また神と自分の交信の場でもあった。

神を自分の胸の中に感じ取っていた、ということらしい。子供のころ迷ったときに親に尋ねると「自分の胸に手を当てて聞いてみな」と、言われたのもそうした自然観からだったんだと、今更ながら思い出す。

フランシスコ・ザビエルは、来日してから日本人に抱いた印象をバチカンへの報告書の中で次のように書いていたという。

「日本人は、自然に関する学問、例えば星の運行や太陽と月の関係といったことに非常に強い関心を寄せる。そして、それが自分たちの考え方と一致する時や、それをさらに進化させたものであるとき大喜びする。学問を通して日本人との関係を作り、宣教師は受け入れられていった。」

この時代の日本人がキリスト教に入信したのは、キリスト教に興味があったからではなくて、西欧の自然科学にあったからだという。日本人にとっての神は、ゼウスではなく、あくまでも大日如来であり天照大神であったという。たとえ首に十字架ぶら下げていたとしても。

日本人の自然観は自然になじむことであり溶け込むことで決して相対するものではない。

だから昔の人は地味で目立たない色彩の服を着ていたのだという。

馴染む、溶け込むということが自然に受け入れられることを知っていた。

こうした感覚に西欧人は何か得体のしれない奥深さを感じていたという。

教会に行ってミサを受けるのもとても気持ちの良いことであることを、つい最近感じた。

どっちも大切なことだと、クリスマスに思っています。

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